発達障害であることをカミングアウトしてもメリットは少ない




 

生きるの辛い だけど頑張る ぬえです@deepspaceout12

 

 

昨日この記事を書いて思ったことがありまして、そういえば私は「発達障害」であることをあまりここでは公言していないなということ。

私は、基本的に見ようとしてくれた方にしか開示していません。

その理由は、「発達障害」であることは隠しておいた方が無難だと考えているからです。

 

人は誰だって嫌われたくありません。

そのために人の目を気にしすぎて、心をすり減らしてしまう人たちがたくさんいます。

私もその仲間の一人です。今思えば、意味のないことを気にして、振り回されてきたなと思います。だからといって、乗り越えられたかというとそうではなく、やっぱり気にしますよ。人の目。

そして未だに私は「発達障害」という世間のイメージと戦っている真っ只中でもあります。

 

 

 

 

私は「発達障害者」

強く言い切りましたが、私の場合はです。人によって考え方はそれぞれ。

 

「発達障害」に対する日本のイメージって想像以上に悪いと思いませんか?

 

ネット上では未だに「発達障害者」は悪口の対象として扱われていますし、現実の社会の中でも「発達障害者」というだけで馬鹿にしたり、哀れみの目で見たりしてくる人がいます。

その人の内面よりも、言葉のイメージが先行しすぎているのが、この日本の現状です。

しかも、そのイメージが先進国と比べ悪い。

 

私はこれまで、「発達障害」であることを公言したことが原因で、馬鹿にされてきましたし、人格否定をされたこともありますけど、それでも 毎日を真剣に生きています。

 

 

発達障害者という偏見との戦い方

障害に対する偏見の問題は、別に発達障害者に限った話ではありません。

人にはそれぞれ「向き不向き」がありますよね。そんな自分の特性を、誰かに理解して貰えないってすごく悲しいことです。

時には、家族にさえ自分の特性を認めてもらえなかったりする人もいます。誰からも理解されずにいたら、きっと心も体も消耗してしまうでしょう。

 

以前、発達障害の息子を殺害した母親のニュースを見たことがありますが、この当時はなんとも言えない気持ちになりました。(習慣女性PRIME「障がい持つ長男を殺害した母親に「みんながつらい事件」)

というのも、「発達障害」が、悲哀を含むバカにするような観点から表現する言葉として取り扱われているこの日本において、

「自分の子供が発達障害であった」という事実と向き合っていく母親の心境は、きっと誰もが想像し難い複雑なものなんだと思います。

だからって、実の子を殺害していいことにはなりませんが、「子供が発達障害だった。失敗作だ。」と考える母親に対して、理想論をぶつけるのもなんだか違う気がします。

 

複雑。とても複雑。なんなのでしょう。

 

 

心の強さについて

私の話ですが、昔アルバイト先でどうしても電話対応が苦手すぎて、「発達障害」であることをカミングアウトしたことがあります。

すると「みんな苦手なことはある。それは甘えだ」と一喝されました。私は、確かに正論だ。と感じつつも、できるだけ優しい言葉で、理解をお願いしたのですが どうしてもダメで。結局「すみません」で終わりました。

 

根性論でどうにかなる世界だったら良かったけど、どうもそれが難しい。かといって精神論でまくし立てるのも違うし、そうなると何も言えなくなってしまう。

そもそも根本的にこの問題を解決すること自体が間違っているのでしょうか。心がもっと強ければ良かったのですが。

 

最近では「大人の発達障害」など、比較的言葉が浸透してきました。

以前よりも理解を示してくれるような人が増えた気もしますが、認知が広まればデメリットもあります。

噂に聞くと10人に3人の割合で発達障害の傾向にあるらしいのです。

これだけ多くの方が障害を持っている現状において、「発達障害」という診断の有無の重要性がここで問われてきている気もします。

 

発達障害と診断される必要性について

周りで「ADHDの診断を下されたか下されていないか」にこだわる人がいます。

たまにそういう人達に向かって、「所詮自称でしょ」「被害妄想」などと批難するネット民がいますが、

ここで両者に問いたい。そもそも発達障害の診断を貰うことの重要性はいかほどなのでしょうか?

 

  • 診断されることで、自尊心が満たされる?
  • 診断されることで、周りの理解が深まる?
  • 診断されることで、自分自身を受け入れられる?

 

これ自体はとてもいいことだと思います。

しかし前述したように、「発達障害」だからという理由でいらぬ偏見や誤解も避けて通れないのは事実。

「この人は発達障害だから」

そんな表面上の理由だけで、その人の特性や素敵な部分を見ようとされない怖さもつきまといます。

 

性別や年齢というカテゴライズで、相手を表面上だけ理解しようとするケースとなんだか似ている気もします。診断を受けることは「発達障害」という世間からのカテゴライズを受けること。

そういう意味では、表面上の偏見は避けて通れないかもしれません。

 

そもそも発達障害の診断は曖昧なもの

ADHDやASDの関連書籍には、決まってこんな文が書かれています。

 

症状の現れ方や程度にはかなり個人差があります。

 

そもそも発達障害は、診断する医師によって結果が変わる曖昧なものです。診断する側もされる側も個人差があります。

それくらい曖昧なものであって、その診断自体が別に人生を変えるものではない。

曖昧なものに、はっきり色をつける理由は人それぞれですが、

その理由が明確でないと、世間の偏見と自分の気持ちに差ができてしまい、きっと自分がもっと分からなくなると思います。

 

 

発達障害をカミングアウトしないほうがいい本当の理由について

偏見やイメージと嫌でも戦っていかなければいかないこの世界(特に日本

発達障害者に限らず、誰しもが「自分らしく」あろうとするこの現代において

世間の偏見の目と戦っていくよりも、自分らしくある方法に意識を向けたほうが絶対にいいに決まっています。

 

昔よりも、発達障害を公言している有名人や著名人が多くなりました。

世間の偏見に押し流されることなく、みんなが自分らしくあろうとし、結果的に世間の発達障害に対するイメージの向上に貢献している現状を見ると

私もそんな人たちの仲間入りになれたらなと、悶々と考えるのでした。

 

と話は少し逸れますが、ここまで一切プロットなしでつらつら記事を執筆してましたので、構成に多少難あり感が否めないですが…。世間様に踊らされ続ける毎日がなんだか嫌になってきたので、自敬も込めて綴ってみました。

最後までお読みくださりありがとうございました◎

 

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